とはおかしな概念じゃないか?

先日来、ペチコートパンツとかハーフトップとかいう婦人物衣料とのからみで、ちょっとだけ私のジェンダーアイデンティティーを告白する話を書いてしまいましたが、今日はその話の続きです。

このブログのプロフィールに書いているように、私はネット上のバーチャル空間でのジェンダーは女性なんですが、正直に言うと、それはたんにバーチャル世界でだけの話ではなく、現実世界でも、私は意識的にあれっ、女性?と思われるような姿で日常生活を送っております。

それを性同一性障害と言えるかどうかは微妙なので、現在の私は表立って性同一性障害ですと宣言することは控えているのですが、世の中には私と同じように、周囲から男か、女かといった性別二元論の枠組みを押し付けられることに息苦しさを感じている人はけっこういるものだということを知っており、その意味で性的マイノリティーの問題には敏感な感性を持っているのです。

ただ、楽しい話題を提供することを主目的としているこのブログでこの問題を取り上げるのは、趣旨に合わないことになりはしないかと危惧していたため、これまでは書くのを控えていたのです。

でも、このごろの世の中で性的マイノリティーに関する話題が、あまりにも不正確に取り上げられることが多いのに、だんだん苛立ちを覚えるようになりましたので、せっかく開いているこのブログを使って、世の誤解を正す活動もしておきたいと思うようになったのです。

これは例の靖国神社問題の場合と似たようなものですね。本来そんな深刻な話はしたくないのに、このテーマをめぐってあまりにも世の中に無知や誤解がはびこっているのを見て、我慢がならなくなるという意味において。

まず第一に論じたいのは、用語の問題です。

最近、性的マイノリティーを話題にする場合にという言葉がやたらと使われるようになりました。アメリカの真似をしてこうなったらしいのですが、10年前にはほとんど使われていなかった言葉です。

レズビアン、はゲイ、はバイセクシュアル、はトランスジェンダーなのだそうですが、この四者を加え合わせた語をこしらえることで性的マイノリティーの代名詞をこしらえたと考えることは、実におかしなことです。

まず、性的マイノリティーの問題って何かという基本を振り返ることから始めたいと思います。

今の世の中では、人は男なら男、女なら女というどっちかの性別に帰属するはずであって、中間的な帰属関係というのはありえないという性別帰属についての二分論、および、人は男なら女を性愛の対象として選ばなければならないし、女なら男を性愛の対象として選ばなければならないという性愛の規範としての異性愛以外禁断論とが支配的です。この支配的な二分論や禁断論に対して、違和感を抱かないのが性的マジョリティーであり、違和感を抱かずにいられないのが性的マイノリティーです。

とすると、性的マイノリティーの問題を論ずるときに、まず真っ先に取り上げられなければならないのは、医学的に言って身体が100の男性や100の女性にはなっていない性分化疾患と呼ばれる疾患の持ち主が現に存在するという事実です。

代表的なものとしては、アンドロゲン不応症やクラインフェルター症候群があります。

アンドロゲン不応症は、性染色体はで男性型なのに、発生の途上で身体が男性ホルモンに反応しないために、女性型の体型をもったヒトとして出生するというもので、ふつうは女の子として育てられて、ほぼ不都合なのない育ち方をするけれども、思春期になっても生理がこない点が、普通の女性とは異なっています。このタイプの人は、外性器が女性型に形成され、陰裂や膣が存在するので、幼時にはこの子は実は女の子ではないんだなどと周囲が意識することまずはないのですが、膣は浅くて行きどまりであり、その奥の子宮と卵巣は存在しません。そのかわりに機能不全な精子形成の役割を果たさない精巣が体内に停留して存在するのだそうです。でも、そのことを医師がはっきりと突き止めて、親や本人に告げる場合を除けば、生涯自分は女性だと思い、周囲もそう思って、何の不都合もなく一生を終える例も多いらしいです。

このタイプの人は、女性的な体型のまま成長するばかりでなく、男性を性愛の対象として感じるのが普通で、疾患に気づかないまま男性と結婚して幸せに暮らしている人も多いそうです。が、せっかく恋愛していざ結婚しようとしたときに染色体がであることが判明したりすると、それを理由に結婚を断わられるというような差別もおこりうるわけです。その意味で明らかにマイノリティーです。

クラインフェルター症候群は、性染色体がであって、身体は男性型に生まれるけれども、思春期以降、減数分裂がうまくいかないためか、精子形成に障害をきたし、通常生殖能力は備わりません。また、精巣からの男性ホルモンの分泌も、思春期にいったん普通の男性なみに盛んになるけれども、早期に減衰し、ホルモン補充療法などをせずにほっておくと、身体に支障をきたすことが多いそうです。このタイプの人は男性への帰属感をもつことが多いけれども、そうでない場合もあり、後者の場合、医師は女性ホルモンによるホルモン補充療法を勧める場合もあるそうです。身体の筋力などは、男性の標準よりは劣る場合が多いらしいです。そういう意味で、男のくせに男らしくないやつだといった差別を受ける危険性があるわけです。

というわけで、性的マイノリティーについて考える際に、まず真っ先に取り上げなければならないのが、この性分化疾患の当事者をめぐるさまざまな問題であるわけで、その際に真っ先に反省を迫られるべきは性別二分論であるわけです。

その次にくるのが、20世紀の終わりのころから盛んに論じられるようになった性同一性障害の問題です。性同一性障害は、身体のレベルでの性分化疾患には該当せず、身体の性別は男性か女性かどっちかにきちんと判別されるにもかかわらず、本人自身が身体の性別とは逆の性への帰属感を抱いてしまうという場合です。これは、発生の段階で脳が男性型に形成されるか女性型に形成されるかの差異によって起こると言われていますそれは、身体の性分化より少し遅れて起こる脳の性分化の際に、胎内で、ホルモンがどう働くかによると言われています。その意味で、性同一性障害の人は、生まれたときにはもうすでにその疾患にかかっているわけで、性同一性障害は先天的なものです。これの原因を育て方などに求める一時期の社会環境決定論のような考え方1970年ごろのフェミニズムの人はそう主張することが多かったのですがは今ではおおむね否定され尽くしています。ただし、現在までの段階では、ホルモンシャワー説と呼ばれる上記の医学上の説も、完全に証明されているわけではなく、未解明な部分が残っているそうですが。

ここで少し細かいことに言及しておけば、性同一性障害という概念を説明するにあたって、西暦2000年前後に啓発の必要上単純化されて宣伝されたと思われる説明法性同一性障害の人は、身体の性別と心の性別とが反対に形成されてしまっているのだという説明法は、私の当事者感覚からみた場合、あまり正確とは思えません。人が自己の生まれ持った身体の性別に対してどの程度違和感を覚える心を持つかについては、かなりのグレーゾーンがあり、デジタルに心の性別が男か女かと割り切ることはできないと、私は思います。そう割り切ることは、性分化疾患よりもあとになって分析されるようになった性同一性障害の説明にあたって、医学者が、すでに反省されるべきものとなっている性別二分論身体のレベルですでにしてこれに当てはまらない人がいるのだから、ましてやもっとあいまいな心の性別については、ますますあてはまらないケースがあっておかしくないと思われるを、むしろ最初から前提にしてしまっているという、いささか皮肉な先祖返りが起こっているのではないかと、私には思えます。

私は、このような単純化が起こったのは、欧米の特にアメリカの思想風土に依存するところがあると推測しています。というのは、欧米では、キリスト教の教義上、同性愛を固く禁ずる例の異性愛以外禁断論が強かったせいで特に、ヨーロッパの多くの国がそれを克服した現在、アメリカがかえってその急先鋒になっています、その禁断論と衝突しないようにしながら、身体上の異性でなくて、身体上の同性に惹かれる心をもつ人を救済しようとしたために、この人の性愛は、表面的に同性愛のように見えても、本質的には異性愛なのですとして弁護してあげるという発想が生まれ、その結果、この人は身体の性は男性だが心の性は女性略称とか、身体の性は女性だが心の性は男性略称とかいう説明が、期待もされ、また実践もされたのではないかと思えるフシがあるのです。性同一性障害の研究や、その当事者の権利を擁護する運動が盛んになったことで、かえって性別二分論が強められてしまったように見えるのは、いささか皮肉なことです。

そして最後にくる性的マイノリティー問題として、どちらの性を性愛の対象として意識するかという性的指向sexualの観点からみて普通でない人が差別されるという、例の同性愛の問題が位置づけられます。

つまり、性愛の規範としての異性愛以外禁断論によって差別を受ける人たちの人権擁護の問題です。

このレベルで初めて、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルというような人の人権について、社会はもっと敏感であるべきだという議論が提示可能となるのです。

そう考えると、性的マイノリティーを表現するにあたってとは、何とひどいミスリーディングな概念であり、ミスリーディングな言葉であることでしょうか。

こういう概念の立て方、言葉の使い方自体が、性的マジョリティーとマイノリティーとを識別する際の変数である三つの指標のうち、最後のひとつに不当に重点を置いた考え方を示しています。

つまり身体の性と心の性genderidenity性自認性的指向のうち、最後の変数にだけ着目して概念化された、女性の同性愛者、男性の同性愛者、両性愛者の三種類を挙げて、それをの三文字で表現し、最後に申し訳程度にトランスジェンダー性同一性障害者をつけ加えることで、全体をカバーしたかのように見せかけているのがこの言葉です。として概念化されたもののうち、四分の三までが性的指向を基準に人間を分類してつくられた諸類型にすぎず、最後にそれと異質な心の性を基準とした分類による概念をおつきあい程度につけ加えただけです。しかも、この分類では、ととでは、分類するときの着目点そのものが違っているのだということが、まるで反映されていません。

さらに言えば、だけを概念化しようと、それにを加えようと、いずれにしても性別二分論という枠組みが、まったく無反省に前提とされてしまっています。

これは明らかに、同性愛はご法度というアメリカの思想風土の中で、それを打破することばかりが課題として意識された結果出てきた視野狭窄症的概念であり、概念の立て方自体が、きわめてアメリカ的なのです。何事にもアメリカの後塵を拝して、英語情報をいち早く手に入れて横文字を縦文字に直せば注目が集まるという日本の学界や出版界の事大主義とも関係がありそうです。

こんな言葉遣いは、やめましょう。そして、正直に元に戻して性的マイノリティーとか性的少数者とか言おうではありませんか。